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栗田 哲男 写真展:チベット、十字架に祈る@キヤノンギャラリー銀座

子どもの頃、クリスマスの時期になると、「なぜ近所のみんなもおうちでクリスマスケーキを食べたりプレゼントをもらったりしているのに、教会のクリスマスミサには来ないのだろう?」と考えていた。

そんなことを思い出したのは、この写真展の作品では、キリスト教徒ではないチベット人も教会で、キリスト教徒のチベット人と共にクリスマスのケーキを食べて笑い合っていたからだ。

わたしが育った日本のカトリック・コミュニティではそういう世間との融和はあまりなく、コミュニティの外には日本の「世間」があり、社会はその両者の上に覆いかぶさっているように感じていた。

ローマ教皇が東京に来てのミサに参加するので学校を休んだ時の周囲の反応には、「ははァ、これが『異端者』への態度か」と思ったものだし、主に外見的な要因から、「お前のお母さん吸血鬼だろ?」などとからかわれた時には発想の飛躍についていけずに、どう反応したらいいのかわからなかった。

ただ、そうした世間との軋轢があったために、ほかの宗教やその文化に早くから興味を持ち、ひいてはチベット支援をするに至ったことは確かだ。

そういう過去があってこの写真展を見ると、解説していただいた教会堂建設や宣教師の神父の墓所造成の経緯、入り口から右繞して見てきて最後になる作品の見方も含め、意義深い鑑賞体験だった。

教会堂は所々の意匠がチベット文化風。龍や鳳凰が天使と並んで吉兆として描かれ、チベット仏教紋様のエンドレス・ノットが侍者室と思しきドアの上の壁に繰り返し描かれていた。そこに、チベット人大工たちの「喜ばしい意匠を使おう」という意気が感じられるようだった。

その外観はまるで中世ヨーロッパの博物誌にある、ヨーロッパの人々が伝聞や想像からカトリック教会を雛形にして描いた東洋の寺院のように、エキゾチックな造り。堂内の造り自体はわたしもなじみ深い、内陣に向かって身廊、その左右に側廊、身廊の入り口に前室という形式。袖廊はないようにも見える。堂内のアーチ部分中央に描かれる天使は、ヨーロッパでは顔だけの幼児の左右に翼が広がっているところ、大人の顔に翼が生えている。ちょっとこわい。

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神父の墓所は小さなお堂のような、入り口部分は沖縄の亀甲墓にも似ているような形で、お墓を作る習慣のないチベット人たちが、土葬が基本のカトリック教徒のために作ってくれたのだな、と思うとなにか泣けてきた。

そして、当たり前だが、写真に写る人々の祈りの時間の表情は、かつてチベット仏教徒の写真で見たものと同じ真摯で真剣なもので、そこに胸を衝かれた。

ところで、会場では時折チベット語典礼聖歌が流れるのだが、言語に引きずられてか、ラテン語聖歌の名残はほとんどない。だが、わたしはどこかでこれによく似たものを聞いたことがある。なんだっただろう……。しばらくして思い出したそれは、長崎の「オラショ」だった。

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さて、いちばん大きく引き延ばしてある写真の一つ、合唱隊席から見下ろしているような教会堂の写真内に写る掲示板に、「二十三主日」とあった。この日に読まれる福音は、マタイ書18章15〜20節。その文末にはこうある。

 

はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。

 

チベット仏教徒と、チベット人キリスト教徒が融和して生きる共同体を写したこの写真展に、なんとなく響き合う言葉であるように思いながら読んだ。

 

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※この写真展は東京・銀座では11月4日まででしたが、大阪ではキヤノンギャラリー大阪で12月3日〜9日に開催されます。テーマの一つは「マイノリティーの中に存在するマイノリティー」。お近くの方、ぜひご覧ください。

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