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強度について

ユリイカ2005年4月号 特集=ブログ作法 あるいはweblog戦記
さいきん「不名誉なリンク集*1」とか「mixiやつれ*2」で話題の、いわば「mixiシステム悪者説」について、『ユリイカ2005年4月号 特集=ブログ作法 あるいはweblog戦記』を読みながら、「やっぱりシステムじゃなくてそれを使う人間の強度の問題だよなあ」とあらためて思う。泉野明じゃないけど、結局どんな新しいものが出てきたって、使う人間の「知恵と勇気」が(ry

それにしても、現実を生きている人間が動かしているシステムに、なぜ現実世界以上の「善さ」あるいは「純粋さ」を期待して裏切られた気分になるナイーブな人々が発生するのだろうか。
たとえば、小谷野敦は本特集で、mixiについてこのように述べている。

 古代社会のそれとネット上のコミュニケーションが違うのは、もちろん、後者においては、個々人がそれとは別個の現実の世界というものを持っていることで、陰惨な日常を隠してミクシィ上では明るくお茶目な「キャラ」を演じている場合もあり、まるごと苦悩を吐き出してしまう場合もある。とはいえ、たとえば「マイミク」の中で三角関係が生じたり、実際に会って振られたりすると忽然とミクシィ上から消え去ったりして、とにかく裏で何が起こっているか分からないのだが、それは別段現実世界でも同じことで、ただコメントの世界で言葉を交わしたりしていても、実際に会っているとは限らない、というところが違うのである。

そう、だから、ネット上であれ現実世界であれ、隙を見せれば「ネット・ホスト」じゃなくたってホスト体質の人間に擦り寄られるし、それはネット上でももちろん、mixi固有に起こる問題でもない。

一方、内田樹はインターネットにおけるコミュニケーションは、「個人を決して孤立させない」システムだと語る。

 ネット・コミュニケーションほど「ひとりでは何もできない」ということを日々具体的に思い知らせてくれるメディアは他に存在しない。文字を書くという行為であれば、紙やペンがなくても、泥に指で文字を書き、壁に血文字を記すこともできる。しかし、インターネット・コミュニケーションでは「無数の他者の協働」が介在しない限り、私たちは文字ひとつ書き残すことができない。
(中略)
 私たちがディスプレイの前にいくら長時間でも座り続けていられるのは、メディアの定型的な説明が言うように、「そこでなら他者と繋がりを持たずに済む」からではない。
(中略)
 私たちがコンピュータのディスプレイの前に座ってキーボードを叩いているという行為そのものが、無数の他者からの無償の「贈り物」を享受することなしにはなしえないという原−事実が私たちの「すでに繋がっている」という確信を担保している。

たしかに。しかし、ここで「贈与としてのコミュニケーション」として称揚されるネットのこの特質こそが、ひきこもりとネットの問題なのではないか。だが、ひきこもりとネットの問題はそれ以上踏み込まれず、この論考は終わりに向け、ネット・コミュニケーションは「応答する義務」と「発言する権利」によって、正味の人間性を露わにする、という行動倫理の話に決着していく。
けど、いや、しかし、それだってネット・コミュニケーションだけが与えてくれる「真理」じゃないだろう。それがネット・コミュニケーション固有の、として捉えられてしまうことについて、また、ひきこもりとネットの関係がそこで固有に立ち現れるのであれば、華々しい擁護であれなんであれ、もっと踏み込み、臨床的に扱ってほしい。そうしてはじめて、ネット・コミュニケーションの称揚されるべき面と影の面に向かう際に有効な地図が手に入るのだと思う。内田のエッセイは、美術品である古地図の鑑賞ガイドのようなものであり、ネット・コミュニケーションに有効で現実的な地図ではない。それへの示唆がまったくないとはいわないが。
そしてもちろん、そうした地図が示されたとしても、その用法は、やはり個々人の強度によって左右されてしまうわけだけれども。