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キリスト教と言葉の機能

m.sさん、はじめまして。

>聖書にしても祈りの言葉にしても現代語はどうも・・・。

ということでしたら、なぜラテン語ではなく

>どうせならイタリア語で

と思われるのでしょうか? 習われているのはラテン語に近い古いイタリア語ですか? だとしたらいっそ、原点のラテン語採用を提唱されるほうがすっきりすると思うのですが?

習われているのが現代イタリア語でしたら、

>私もあなたの意見に賛成でです。

のあとの

>どうせならイタリア語で、という次第です。

というご意見には、「どうせならシェイクスピアをアメリカ英語で*1」と提唱されているような違和感を感じます。


ところで、2004年9月7日の日記の(2004/09/18 19:26)のコメント*2などをお読みいただければおわかりになると思いますが、わたしはキリスト教を日本文化に合わせること・聖典の現代日本語訳などにただやみくもに反対する者というわけではありません。

祈りの言葉に関しては2004年9月7日の日記の(2004/09/11 19:16)のコメント*3に書いたとおり、口にする言葉としての「機能」の問題としてとらえています。

また、聖書に関しても同様に、朗読用に古語訳は引き続き必要だとは思いますが、より信仰を深めるため、知見を得るには、最新の聖書研究の成果を反映した注を盛り込んだ、準・歴史書としての現代語訳聖書も必要だと考えます。

要するに、使用する場によって適切な言語は異なる、という考えです。2004年9月7日の日記本文だけでなく、コメント欄でのみなさまとのやり取りをお読みいただければ、ご理解いただけることと思います。ご一読くださることを希望します。

*1:ってそれじゃ「ロミ×ジュリ」→「ウェストサイドストーリー」ですね。

*2:「kutuさん、はじめまして&こんにちは。そうですね、聖書は「本来朗読されるものであり、朗読されてこそ生きた『み言葉』となる(http://homepage2.nifty.com/immanuela/hoshi/mori_00/cd_seisho/panhuretto.htm)」ものなので、kutuさんの体感されていたような「つぶやく感じ」が感じられないとつらいですね。/ただ、親しみやすいという点でなされているこういう試みは、もっとされてもいいと思いますが>http://www.epix.co.jp/kesengobible/

*3:「Besucherさん、こんにちは、&こちらでははじめまして。そうそう、それなんですよ>「口にしてかっこいいかどうかが重要」 Besucherさんのおっしゃることは、唱えることを目的のひとつに含む文言は、唱え易い「かたち」を伴うというアフォーダンスが必要、ということにつながりますよね。聖句の、意味内容を全面に押し出した現代語訳は、「わかりやすくしてその先を知ろうとしてもらおう」と、宗教の一番のウリである神秘性を考慮に入れずに間口を広げようとして、間違った方法を採ってしまっているのではと思われ。」