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霊長類ヒト科アゲアシトリ属ジュウバコツツキ目の妄想多め日録

ピナ・バウシュ ヴッパタール舞踊団

開演30分前に行ったら、すでに当日券を求める人々の長い列! id:Tigerlilyことモモちゃんと偶然に遭遇して、「なんでドイツのダンスシアターは日本と相性がいいの?」「暗さ重さがありがたがられるんじゃ?」とかいう会話をしながら待つ。

そして公演。すばらしかったです。席が2階前の方、中央寄りだったので、群舞の構成などがとてもよく見えたこともあり。

以下は適当アテレコみたいな感想妄想走り書き。

痛みを分かち合う少女と中年の男性。しかし、分かち合うことで、男の中には痛みが沈殿し、少女からは痛みが蒸発する。
少女は、気付かぬうちに天使の助けを借りて、痛みと、そして男をも乗り越えていくが、男は同じところに痛みの重さで足止めされる。
その過去の意味を、すでに中年を過ぎたかつての少女が、残酷な痛みとともにトレースする。

ダンサーたちが踊り続けるに連れ、床に敷かれた濡れた土と、汗とが混じり合って、まず、足の裏が茶色くなり、さらに、転がって踊れば衣装が肩胛骨に沿って、あるいは剥き出しの肌が、うっすらと色づいてゆく。

さて、毎回、生け贄が異なる人選となる、と聞いていたが、わたしが見た回は、舞台上の全メンバーのなかで、もっとも小柄な東洋系の女性が生け贄だった。生け贄を選び出す審判役の男性が大柄なのもあり、いろいろ考えてしまう。

たとえば、ドイツの田舎に嫁した友人の妹が、ベトナムからの養女だとか、東洋系のお手伝いさんだと、あまり親しくないご近所に思われていた、という話とか、あるいは、アジア地域エイズ忌避買春ツアー(ちなみにわたしは「買春」と書いて「かいしゅん」と読む話法に慣れない。というか、それが「回春」を想起させるという点で、その無神経な話法にかなりむかつく)などの、ヨーロッパからの東洋への視点が、自分の中にいつのまにか浸透している、という『オリエンタリズム』に、居心地が悪くなる。わたし自身は東洋人としては小柄な方ではないので、小柄な東洋系の女性が、あの人選にどう感じたか、聞いてみたいと思う。

とはいえ、その居心地の悪さがバネになって、生け贄が選び出され、怯え、連れ回され、抵抗の身振りで跳ね回り、走り回るシーンが際だって見えたとも思う。

生け贄が審判にとうとう捕まり、その印である紅い衣に舞台中央で着替えさせられるときの、審判役の大柄な体に隠れて半分は見えないものの、諦めて弛緩したかのような身体から発散される無気力さ! そのブラックホールのようなふたりを芯に、生け贄に選ばれずに済んだ男女が一斉に交わう身振りが繰り広げられるさまから、凶暴さを感じるほどの強さで、エロスが客席にたたきつけられる。

そして、エロスのかたちで迸る一群の「生」の奔流に巻かれて、ひとり、「死」に差し出された生け贄が、群れから離れ、とうとう息絶えると、離れた場所で横たわり、待ち構える審判は、生け贄のなにか、を、抱き留める。

「小さな死」を謳歌する「生」の側の人々のために、死んでも生け贄は共同体に抱き留められ、祀られるのだろうか。だとすると、生け贄の魂は、どこへもいけないままなのかもしれない。その、「死」に追いやられながらも、「死」に安住させてもらえない側からの呪詛が、「生」を裏打ちしているのかもしれない。