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霊長類ヒト科アゲアシトリ属ジュウバコツツキ目の妄想多め日録

『告白』町田康

告白
思春期のころの、自分の自我を持て余す感覚を引き摺っているひと(というかわたし・笑)にとっては、延々、700ページ近くにわたり、ほとんど読む羞恥プレイのような大冊。
帯に掲げられた命題「人はなぜ人を殺すのか」に対して、作者はもったいぶることなく証明の公式を立て、大量殺人を犯すに到る主人公の内的・外的状況を丁寧に描写していくことで、その公式の解を示していく。

作家が本書内で早々に立てた公式は、次のようなものである。

「思いが言葉になっていかない」+「思っていること考えていることは村の人らには絶対に伝わらない」=「俺の思弁というのは出口のない建物に閉じ込められている人のようなもので建物のなかをうろつき回るしかない」

本書は、このような近代的な思考方法を持ってしまった自我が、前近代的な生活環境と相容れることができず孤立し、殺人に到るさまを、かつての農村のしきたり、個人という概念さえない濃密な人間関係、前近代的な河内弁の用法との対比でもって、主人公と同じくそれらと相容れない読者に対し、ものすごい速度で開示していく。



さて、それがなぜ、思春期に落ち込んだ自我の沼の藻を、いまだ足首あたりにまとわりつかせている人間にとって「羞恥プレイ」なのかというと、本書で描かれる葛藤と悲劇が、社会での思弁方法・言語用法を疑いなく習得し、馴染んでいくことへの困難から発しているためだ。
自意識が過剰になり、自我の肥大する時期というのは、思春期に訪れがちな季節ではあるが、残暑がいつまでも続くようなかたちで、そのような時期をひとより多く過ごさざるを得ない人間もいる。
そのような人間が、その時期、親や先生の発する理の通っていないように見える論理に対して、言い返したいけれども、まだその術を持たず、かといってその自意識と自我のありようから、周囲とよりよくやって行くためにどこかで折り合いをつけ、大人の論理を体現する思考や言語を習得する方向へ行かず、むしろ、その自意識と自我の壁に阻まれ、なぜ自分の今、持っているだけの、つまり、そのままの自分の思考や言語では周囲に受け入れられないのか、と閉じこもってしまえば、本書と近似の状況は容易に発生するだろう。



一度、そのような経験をした人間は、その後よほどのことがない限り、人間関係でなにごとか不具合が起こるたび、あの自分の膨張した自意識と自我によって前進を阻まれる、焦燥感を伴うなんともいえない、あのいやぁな気分を、幾たびでも、そう、まるで反吐のように味わう羽目になるのだが、本書はそうした状況を、主人公の内的状況を丁寧に描き出すことで見事なまでに再現してしまう。
そのような強烈な感覚を与えられることがわかっているのに読み進めざるをえないのは、思春期のあのとき、自意識と自我に巻かれたままになってしまっていたら、自分はいったいどうなってしまったのだろうか、という、怖いもの見たさからであり、そうなっていたやも知れぬ、あのころの自分を解剖し切ってほしい、という切望による。
これが、羞恥プレイでなくて、なんであろうか。