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『村上春樹論 『海辺のカフカ』を精読する』

村上春樹論 『海辺のカフカ』を精読する (平凡社新書)
ネットで感想を読むと、毀誉褒貶激しい。毀と貶は村上信者っぽい気配だが、村上信者でありつつその批判本がためになった、という感想もあるので、ちょっと読んでみたいと思う。

さて、『海辺のカフカ』を読んでわたしが思ったことは、次の一点に尽きる。

村上春樹は、もう長編をまとめきる体力がないんじゃないのか。

まず主人公が、この大分な著作で最初から最後まで主役を張れる器じゃない。いや、器とか、キャラが立ってないとかの問題じゃない。リアリティが感じられないのだ。前回も書いたが、コンビニが東京にしかなかった時代じゃあるまいし、いまどき15歳の少年が、コンビニを「コンビニエンス・ストア」なんて言わないだろう。

少年が「コンビニエンス・ストア」とわざわざ言うようなキャラクターであることが、ドラマトゥルギーに関わる性格造形なのかといえば、そんなこともない。そういう非現実的な描写は、物語の記号化にとって邪魔になると思うのだが、ドラマトゥルギーの前に、主人公も脇役も、強引に人格を犠牲にされ、記号化されている。

副主人公と言ってもいい老人の人物造形に至っては、あんなに長く、しかもメタ的な事象を一般人に語ることのできる知的障害者がいるかい、とあまりの不自然さに噴飯しそうになる。その老人の相棒になるトラック運転手に関してだけは一瞬、「古田新太が演じたらはまりそうだな」というくらいにはリアルな印象を持ったのだが(なぜ一瞬かというと、このトラック運転手が租借されていない作者の言葉をだらだらと喋るようになっていったからだ)。

しかし、そうやって登場人物の人格を犠牲にしたそのドラマ自体、前の日記にも書いたように、それぞれのエピソードのつながりがひどく悪く、『ねじまき鳥』のときのような、というか、優れた小説が有している有機的な一体感と言ったようなものが、ない。

その上、精神分析のあまりにメジャーな理論を、小説的になぞり書きしたかのごときものが筋になっているのである。人物ばかりか、ドラマまでもが記号なのだ。

こんなの、物語でも小説でもないだろう。これを読んで癒しを感じたという読者がたくさんいるそうなのだが、彼ら彼女らは、果たしてわたしと同じものを読んでいたのだろうかとさえ思う。頭が痛い。