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Words make the person

「◯◯さんが親だなんて、ズルい」

 

そんな「ズルい」の使い方に違和感がある。「ズルい」というのはわたしにとっては、意識的にズルいことをした点について責める言葉、もしくは依怙贔屓のように、ズルをさせよう、下駄を履かせようという行為を咎める言葉だからだ。

◯◯さんが親であることがズルい、というのは本人には選択しがたいことであって、そう言われてもその「ズル」を是正するために、本人には何をどうすることもできない。それを「ズルい」というのは言うほうにも言われるほうにもよろしくないと思うのだ。というのも、物心ついて以降、人間は自分の使う言葉で形作られるからだ。

スパイアクション映画『キングスマン』には、"Manners maketh man."というフレーズが登場する。maketh はmakeの古い形で、三人称単数現在形。"Manners maketh man."は、「マナーが人を作る」=家柄や遺伝的な血筋ではなく、礼節が紳士を作るのだ、という意味であることが映画を通して描かれる。

それと同様に、使う言葉は人を作るのだ。たとえば、なにかモヤモヤして表現しがたい気持ちを言葉で表すことができたとき、わたしたちはどう感じるかを考えてみよう。その気持ちを表した言葉が完全にフィットしていると思える時ばかりならいいけれど、言葉で表しきれない部分が幾許か取り残されてしまうこともあるのではないかと思う。

その取り残された部分、モヤモヤした気分の残りはどうなるだろうか。残念ながら、よほど鋭敏な感覚の人でない限り、言葉で表し切れなかった、そうした「部分」は記憶にいつまでも残らず、忘れられていく。そうなると、言葉を慎重に、自分の気分になるべく合うように使わないと、独自性のある人格などは形成されない。十把一絡げの「どこにでもいるひと」の出来上がりである。

そうならないために、本を読んで言葉を知り、美しいものを見たり聞いたりして、そこで得た気分をどう言い表すかを考える習慣を持っていたい。また、自分が「あのようになりたい」と思う人物がいれば、そのひとの言葉の使い方を観察してみるのもいい。繰り返すが、人間は思考するための言葉によって生成されているからだ。

そのように慎重に言葉を使わず、「羨ましい」「いいなぁ」と感じる状況に、周りが言っているからと、「ズルい」という言葉を使っていると、真に「羨ましい」と思う憧れのような気持ちは切り捨てられ、責める気分を表す「ズルい」という言葉で記憶が固定されていく。「ズルい」と表現しなければ、「羨ましい」という気分から「じぶんもああなりたい、では、そうなるにはどうしたらいいか」という思考が展開したかもしれないのに、である。

また、「羨ましい」という状況を「ズルい」と表現しているところを見た他者に、「この人、雑な言葉の使い方だな」とか、「ズルいと言われても◯◯さんのお子さんも困るやでは」と否定的な評価を持たれる可能性もある。「なさけはひとのためならず」ではないけれど、自分がなにをどのような言葉を使って思い考えているか、をときどきでも意識することは、最終的に自律した自分を作ってくれるように思う。

ただ、まれに言葉に表し切れなかった気分そのものではなく、それを忘れてしまったという喪失感だけが残ることもある。その喪失感をなんと名づけるべきだろう。それをずっと考えているのだけれど、どうも思いつかない。

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