手の重さ 《連作短編集「デッドロックのはずれ方」3-1》
久実は音楽室のある四階手前の踊り場まで一気に駆け上がり、そしていきなり座り込んだ。
(なにも知らないくせに!)
(だからバカで愚鈍な男子ってキライ!)
(なにが久実ちゃんだっての!)
怒りと憤りの思いとともに、フルートを強弱つけて吹くために鍛えた肺活量で大きく矢継ぎ早に吐き出される吐息は、思念に色があったらイカスミのようにどす黒く、あっという間に踊り場を黒く塗りつぶしたかもしれなかった。しかし、自分と母のことを言われて何をそんなにムカついているのか、久実はどこかで不可解な気分も感じていた。
「クミ、遅いねー」
「いちご牛乳、なかったのかな」
「外の売店に買いに行ったのかも……」
「えー」
「あの子、そういうとこ、まじめじゃん?」
「そこまでしなくていいよね」
「いや、そこは善意にとろうよ……」
いちご牛乳を買いに降りる前まで、いつものようにしゃべっていた実佳と詩緒が、小声でしゃべっていた。久実は、コンクリートの壁に背をつけて座り込んだ姿勢から、その壁を利用して徐々に立ち上がり始めた。完全に立ち上がる前に実佳が階段の上に顔を出し、あとに続いた詩緒と踊り場に駆け降りてきた。
「あ! クミ、いたいた!」
「ごめんー、もしかして売店、売り切れ?」
「あ、うん、ごめん、自販にないか見たけど、なくって」
「いいよいいよ、あとにしよ、ってか帰りにみんなでドトール寄ろ?」
「だね」
悪い子じゃない、優しくて、何の問題もない、ともだち。家に遊びに行くと、二人のお母さんはそれぞれ自然体だ。おやつに箱のままのポッキーとか、ただ茹でただけのとうもろこしとか、蒸かしただけのさつまいもが出てきたりして、久実はホッとする気持ちに何度もなった。
(でも……。なんでなんだろ、この子たちとずっと一緒にいると、時々、息苦しくなるのは)
気づけば、いちご牛乳を買いに四階を離れた時に響いていたのとは違う曲が、音楽室からは流れていた。
■ ■ ■
久実は、家にあまりともだちを招ばない。一度来た友達は、また来たがるのだが、三回くらい来ると、あまり来たがらなくなる。それがわかっているから、久実は一年に一度、母の求めに応じるかたちで、誕生会にだけ、複数のともだちを招く。それからまるまる一週間、学校では西野家の誕生会がいかに豪勢か、まるでアメリカ映画のようだったかが話題になる。
クラスメイトは「いいなあ、あんなお母さんで!」「家族の誕生会とかもあんな感じ? それとももっとすごいの? クリスマスは鶏の丸焼きとかやるの?」とか言ってくる。久実は曖昧に笑いながら、「いつもあんなわけ、ないじゃーん。疲れちゃうよ」と答える。
が、実際は西野家の日常はおおむね、「いつもあんな」だった。誕生会のテーブルには、久実の母の手作りのピクルス、サラダ、ポタージュスープ、カナッペ、魚のマリネ、持ち手に紙の飾りのついた鶏の唐揚げ、ローストビーフ、豚肉でくるんだスコッチエッグ、フルーツポンチ、そして二段になったバースデーケーキが並ぶ。
ふだんの食卓ではこれが縮小されて、ピクルス、サラダ、ポタージュスープ、ローストビーフもしくは鶏もも肉のソテー、焼いて一日寝かせた洋酒漬けのドライフルーツから母手作りのパウンドケーキが並ぶのだ。
実のところ、久実はマリネやピクルスはあまり好きではないし、ローストビーフは噛み切りどころがよくわからなくて、おいしいと思えず、これもあまり好きではなかった。鶏もも肉のソテーの味は好きだったが、母の言うとおり、ナイフとフォークだけで骨についた身を完全にこそげとるのは、子どもの久実には一苦労だった。一度、給食で知ったハンバーグをねだったことがあったが、そうして出てきたのはスコッチエッグ。
「形がなくなるまでお店で加工したお肉、おかあさん、好きじゃないの」
それが「卵は入れなくてよかったのにー」と控えめに抗議した久実への、母の言葉だった。あとから知ったが、スコッチエッグ用に、母は買ってきた肉を叩いて自分でひき肉にしていた。
こんな食生活だから、久実は箸を使うのがヘタだった。だが、小学校の面談でそれが「給食を食べるのが遅い理由かも」と、担任から母に伝わってから、ピクルスとサラダは箸を使ってきれいに食べる特訓メニューになった。これまでフォークでも箸でも食べやすい形状だったピクルスの中身は、ひよこ豆やペコロス、芽キャベツなどの、なんだか食べにくい内訳に変わった。サラダはとくに変化はなかった。だが、フォークで食べているときには気づかなかったが、自家製ドレッシングのかかったレタスは、箸ではどうもつかみにくいものだった。
「ねえ、フォークで食べてもいい?」
そう聞くと、母は(久実が本で知った「目が三角になる」という表現は実に正しいと思った目付きで)キッと睨んで言う。
「お外で恥ずかしい真似はさせられないから駄目よ」
たまに早く帰った父がうっかり、
「じゃあ、ぼくもお箸でいただこうかな」
などと茶々を入れると、母は黙ってテーブルを離れて戻ってこないか、
「あなたは久実がだらしなくなってもいいの?」
と、ヒステリックに、金属質の声を上げた。そんな母の考える厳密さや厳格さを求められることに、父も久実も疲れていた。父の帰りがだんだん遅くなっていったのも、ただ働き盛りで仕事が忙しいというだけではないと、久実は思っていた。