Noism0+Noism1+Noism2『春の祭典』
大雨の東京から新幹線に乗り、トンネルを抜けたら夏の国だった新潟で、「ストラヴィンスキー没後50年Noism0+Noism1+Noism2『春の祭典』」*1を見た。
新潟市には「りゅーとぴあ」という愛称の新潟市民芸術文化会館がある。その劇場の専属舞踊団がNoism(ノイズム)。わかりやすくいうとNoismは、新潟市が運営する舞踊団だ。補助金だけでなく、運営のために市職員が複数名、選任されている、日本では今のところ初にして唯一の自治体立の芸術団体だ。
そのNoismの新作『春の祭典』をコロナ禍のため一年遅れで見た。ほかに日本ダンスフォーラム賞大賞受賞記念として『夏の名残のバラ』を再演、またコロナ禍で昨年、初の映像のための舞踊作品として配信した『BOLERO 2020』を大スクリーンで上映という盛りだくさんの内容で5,000円。私の場合、寄附支援者向け特別価格で4,500円。
安い。格安! 今回のこの内容と同等レベルの別の舞踊やコンテンポラリー・バレエを東京で見ようとしたら12,000円くらいかかると思うのだが、自治体が擁する舞踊団で補助金が運営資金の40%くらい入っているからか、新潟公演は一般5,000円、25歳以下3,000円、高校生以下はなんと1,000円で見られる。埼玉公演は一般6,000円、25歳以下3,000円だ。1,000円でこれが見られるなんて、羨ましすぎるぞ新潟のティーンエイジャー!
『夏の名残のバラ』
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女性ダンサー井関佐和子とカメラマン役の男性ダンサー山田勇気の舞踊。二度目の鑑賞だが、一度目でのラストから振り返るつもりで見ようとして、一度目以上に映像と生のダンスに目と頭が引き裂かれ、「集中してるのに集中できなくて集中したいのに集中できない」、とでもいうような不思議な状態になる。
2~3年前の一度目の鑑賞時は、井関の自在な動きと表現への驚きが前面に来たけれど、今回は「実はカメラマン役のダンサーがかなり大変な作品なのでは?」と、井関以外にも目が行くのもあり、やはり集中したいのに集中できなかった。おそらく見れば見るほど気になるところが増えていく作品。この状況に陥ること自体が、完全に作品の術中にはまっていると思う。
『BOLERO2020』
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終盤近くまでダンサーたちが一人ずつ踊っているコマを並べてインターネットで有料配信されている作品*2。
大きなスクリーンで見ると、画面が小さくて気づいていなかった部分や演出が理解できてとてもよかった。惜しむらくはこの作品も拍手の時間がほしい。ボレロの曲がジャラララン! と終わって即、始まる次の作品『FratresIII』の世界にチューニングを切り替えるのは大変だった。
『FratresIII』
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今回でおそらくシリーズ最後の上演とのこと。このシリーズが最初にかかったのは、まだコロナのコの字もない時だったが、今ではまるで予言したかのように見える。
IもIIも、今回のIIIも、この舞踊団のリーダーである金森穣の存在感の軽重の操り方が絶妙。もしこれを同じような立場の、振り付けもして自分も踊るリーダー、たとえば熊川哲也が踊ったら、ほかのダンサーとは徹頭徹尾、主と従の関係になってしまいそうだな、などと思う。金森の場合、そのように常に自分が求心的になるようには踊らないので、「衣装と照明でどんなに華奢でも男性ダンサーは上腕二頭筋の発達ぶりで男性とわかるな」などとフードをかぶってノースリーブのワンピースを着たほかのダンサーたちの腕の動きを見比べて思ったりもした。
『春の祭典』
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休憩を挟んで今回の主目的。とはいえすでに馴染みのある傑作二つと大画面でのボレロを見ての休憩のあとなので、あまり飢餓感なく見られた。一年待っての公演で、それにまつわる余計な感傷が鑑賞のノイズになるのを心配していたが、始まってみればそんなセンチメンタルな気分はすぐに吹き飛ぶ不穏さ。
まず、「もし『春の祭典』を演奏するオーケストラが踊り出したら?」という設定なれど、白いシャツ型パジャマのような衣装とそのよそよそしい登場ぶりに、楽団員というより病院から焼け出されてきた入院患者とか、あるいはコロナ禍で全員がなるべく間を空けて座りたいと思っているのにままならない電車の乗客みたいだと思う。っていうか、あんなに楽団員が仲悪そうなオーケストラがあったら怖いなあ。
その団結できなさそうな彼らが、外的なものに全員で立ち向かうかと思えたなか、突如、百合的展開で生贄の女性カップルが誕生。二人は逃げおおせられるのか? と思いきや、え? 今さら? という場面での片割れの裏切りがあり、いやこれ楽団員だったらこの人たちこれからどう合奏していくのよ、繋いだその手はいつまで信じられるの? と、全員が手を繋いで何ものかに立ち向かっていくラストシーンに、不安がおさまらないまま幕。
ところでNoismのものに限らず、春の祭典の男女に分かれて争うパートで、心が女性の男性役が女性グループに、心が男性あるいは女性ではない、みたいな女性が男性グループで踊る、というのはどこかやっているのだろうか。そういう不均衡を抱えたメンバーがいて、かつ生贄にならない、というのもじゅうぶん有りだと思うのだが。
と、いうようなことを考えつつ、帰りはダンスの余韻に浸りながら川辺を歩いて萬代橋を渡って帰った。信濃川沿いの川辺の遊歩道「やすらぎ堤」って「やすらぎつつみ」なのか?と思っていたが、何人かのひとが電話で「いま、やすらぎていにいてさあ」などと言っていて正しい読み方を知る。
そして、長く綺麗に整備されたこの川辺の道には、実にたくさん、でも適度な間隔で長椅子タイプのベンチが設置してあるのだが、一つとして東京で見るような、あの心の貧しい「仕切り」が付いてはいなかった。それが本当にありがたかった。こういう都市だから、市民芸術文化会館が専属の舞踊団を擁することが可能になっているのかもしれない。
そんな夜の散歩の後、宿に帰ってからは、久々の生の舞台と舞踊の刺激が強烈すぎて脳がガン決まりとなり、翌朝までまったく眠くならなかった。結局は帰りの新幹線で寝るからいいやと途中で眠ろうとする努力を手放した。やはり、質の高い舞踊は麻薬である。
そんなわけで帰宅してその晩は泥のように眠ってから、このレビューを書き始めた。
Noismは新潟市長が代わった2018年、存続の危機に立たされた。市から年間5,000万円も補助金を出すのは無駄なのでは?という議論が持ち上がったのだ*3。その顛末を取材したBSN新潟放送のドキュメンタリー番組『芸術の価値 舞踊家金森穣16年の闘い』は、第57回ギャラクシー賞テレビ部門選奨に入賞、また文化庁芸術賞テレビ・ドキュメンタリー部門の大賞を取った*4。
こうしたことから(文化的な地方創生を後押しすべしというなんらかの力が働いたのではないかと私は類推しているのだが)2021年、金森穣が紫綬褒章を受章、井関佐和子が『夏の名残のバラ』で芸術選奨文部科学大臣賞を受賞、金森が同作品で日本ダンスフォーラム賞の大賞を受賞。今回の公演では、この受賞について金森穣と井関佐和子それぞれにインタビューしたリーフレットが配られたが、そこで二人が「いただく祝電に面識のない方々がとても多くて驚いた」と、忖度なしに言っているのが面白かった。井関が金森の紫綬褒章受章の第一報に喜びのあまりバク転したというのも。そして、今後も折り合いはつけても忖度はせずにNoismが活動できることを願った。
なにしろ今のNoismは金森と井関の二枚看板で評価されているようなものなので、ほかのメンバーが二人に比肩するほどに育つのにまだ時間が必要だ。金森が1992年、18歳の時からモーリス・ベジャール*5のもとで舞踊と振り付けを学んでヨーロッパ各地で羽ばたき、2004年に新潟市に降り立って自身の舞踊団を立ち上げたように。
あと、新潟市がNoismに、「新潟市の新しい文化的価値の醸成」よりも、「地元のための活動」の拡大を求め、それができないなら「金食い虫だ」というなら、地元での公演料金はそのままで東京公演や埼玉公演は首都圏価格に値上げしてもいいんじゃないかとも思った。といっても舞踊だからといってファンの行動は変わらないわけで、「推し」を見るために相当な人数が公演のたびに県外からやってきて泊まり、食事をし、なんらかのお土産を買って、と、公演料金以上にお金を落として帰っていると思うのだが、その経済効果は新潟市によって推計されているのだろうか? 私の場合、毎回、鑑賞アンケートの「どちらからいらっしゃいましたか」とか、年齢についての質問に真面目に答えてはいるのだが。
*1: https://noism.jp/npe/ros2021/
*2: 7日間レンタルで200円。 https://noism.jp/bolero2020_news/
*3: https://www.nippon.com/ja/news/yjj2020011800412/
*4: https://www.ohbsn.com/tv/m/programs/tokuban/noism-kanamori-history.php
*5:『ボレロ』などで知られる20世紀最高の振り付け家の一人。ベジャール没後は長くバレエ団:ベジャール・バレエ・ローザンヌで踊ってきたジル・ロマンが跡目を継いでいるが、もう60歳。だが目立った後継の名前は上がってこない。そのせいか、近年、ロマンはベジャール・バレエ・ローザンヌを次の誰かに手渡すまではと、意図的に歳の取り方を遅くしているかのように見える。悪魔か吸血鬼と取引していても不思議ではない。
推し活ホルモン
ジェーン・スーさんと堀井美香さんのポッドキャスト番組「over the sun」のファンで、自分が聴くだけでなく海外在住邦人にもおすすめしている。もともとはステイホームでリモートワークをしている夫の人が、ジェーン・スーさんのラジオ番組「生活は踊る」を聴いていたところから「over the sun」も聴くようになってすすめてきたのだ。
それ以前はわたしにとってジェーン・スーさんはエッセイストだったので、新鮮な気持ちで聴いている。たぶん世間とは逆なんだろうけど、ジェーン・スーさんとの出会いが声と文字、みんなどちらが先なのだろう?
さて、その「over the sun」でちょこちょこ話題になるのが推し活。なんでも推し活によって女性ホルモンの分泌が促進されて、閉経したはずなのに生理が戻って来た話などを面白く聴いていた。
バレエに見る新型コロナとの闘い
Kバレエカンパニーの『カルミナ・ブラーナ』 特別収録版をリモートで見た。 宣伝画像ではKバレエを率いる熊川哲也が、 陶酔したように目を閉じる若き美形ダンサーと絡んでいる写真が使 われており、 BL妄想癖のある身にはかなり訴えてくるものがある。
www.bunkamura.co.jp
この作品はカール・オルフ作曲の有名曲『カルミナ・ブラーナ』 に熊川哲也が振り付け・演出したもの。 2019年の初演時のストーリーは『カルミナ・ブラーナ』 が作曲された1936年を舞台に採り、「 世の中に突如降りかかる災厄」 としてその時代に勃興したヒットラーと同名の「アドルフ」 が運命の女神によって人間界に産み出され、 悪として崩壊の限りを尽くすが、 最後には彼を産み出した運命の女神に殺される、 というものだったという。
それを今回の2021年版では、「 コロナ禍に立ち向かう世界中の人々に贈る復活へのメッセージ」 と銘打って、女神を人類に変えて再演出することで、「アドルフ」 を産み出すのも倒すのも人類としていたのだが……。 腑に落ちない。
熊川哲也は今回、この作品の「アドルフ=災厄」 を新型コロナのパンデミックに重ね合わせて舞台を作り上げようと したわけだが、となると現実を鑑みれば、「アドルフ」 を倒す人類は、カリスマダンサーひとりだけではなく、 様々な立場の人間が挑んでは敗れ、しかし最後には、 という結末になるのだろうとわたしは思っていた。「 アドルフ」役は、邪悪な笑顔と存在感が素晴らしいし。
だが実際は、「アドルフ」回収直前までさまざまな立場の人類、 天使、太陽(!)を含む自然などが「アドルフ」 に翻弄されてはいたものの、 倒す役は熊川哲也ただひとりだったのだ。
え。それってあり? 人類と悪との闘いで、その様式っていまどきあり? いろんな人が次から次に「アドルフ」に挑んで、 最後に倒れていった者たちに推されるように出てきた熊川哲也がと どめを刺す展開じゃダメなの? そりゃあ、熊川哲也ほどの天才であれば、 コロナ禍を収束させるウルトラマンのごときカリスマの存在を信じ られ、感情移入でき、表現できるのだろうが、 観客の一般人はどうだろうか。
唐突ではあるが、熊川哲也は天才である。 その履歴の中で特に目立つものを拾ってみみると以下のようになる。
1989年、16歳でローザンヌ国際バレエコンクールの最優秀特別賞のゴールド・メダルを獲得。 ローザンヌではこの年まで決選以外は拍手が禁止されていたが、 熊川哲也は予選の段階から拍手が鳴り止まず。
同年、世界三大バレエ団の一つといわれる英国ロイヤル・ バレエ団に東洋人として初めて入団、1989年9月にはロイヤル・ バレエ団史上最年少の17歳でソリストに昇進。 1993年5月には入団から4年2か月の21歳と2か月という異 例の早さでプリンシパル(最高位ダンサー)に昇進。1998年に26歳の若さでロイヤルを電撃退団、 翌1999年に自らのバレエ団であるKバレエカンパニーを創立。 ダンサーやスタッフにギャラをちゃんと払える、 生活を保証できるバレエ団として現在も存続*1。
そんな天才・熊川哲也だから、 コロナ禍という巨大な敵を倒すただひとりのカリスマを、 運命の女神のかわりに据えようと思ったのかもしれない。そして、 Kバレエの作品を見る大半の人は、そんなカリスマ・ 熊川哲也のファンが大半なので、 この展開でよかったのかもしれない。
でも、作品に込められた「 コロナ禍に立ち向かう世界中の人々に贈る復活へのメッセージ」 という命題を考えると、 熊川哲也がカリスマ役として登場するとしても、 凡百の人間がコロナ禍を体現した「アドルフ」を倒そうと試みて失敗した後で登場してほしかった。 そう思うのである。なんなら「アドルフ」 に向かっていく熊川哲也のうしろで、 先に倒れた人々がバレエダンサーの空中を浮遊するような動きで守 護霊のように漂うシーンが見たかった。
あるいは、ほかのバレエ監督がこの作品を演出し、ほかのバレエ団が踊ったとき、つまり熊川哲也の手を離れて表現されたときに、この作品の真価がわかるのかもしれない。Kバレエのオリジナル作品ということもあるが、群衆役も兼ねる合唱団含め250人もの出演者で構成された舞台なので、コロナ禍で舞台を打てず弱体化しているバレエ団による上演は不可能とも思えるが……。
※「月刊暗黒通信団注文書」2021年4月号初出、一部改訂
*1: 日本ではバレエ団員として生活していけるのはほんの一握りで、 団員や関係者にチケット売りさばきノルマがあるバレエ団もあるという。
映画『羊飼いと風船』@シネスイッチ銀座
気付いたら一日一回上映になっていたので岩波ホールのチベット映画特集の前に。階段の壁に、パンフレットに使われている蔵西さんの絵がチベット生活解説パネルとして貼ってありました。パンフレットより一つ一つの絵が大き目なので、見ごたえあり。
https://twitter.com/kuranishitenten/status/1349357759641178113?s=20
チベット映画『羊飼いと風船』の舞台のアムド(東北チベット)の絵解きイラスト描きました。映画は来週1/22(金)から公開です
— 蔵西/チベット少年僧漫画「月と金のシャングリラ」完結・電子版は限定特典付き (@kuranishitenten) 2021年1月13日
アムド絵解きイラストや絵地図は映画パンフレットにも載る予定…
シネスイッチ銀座さんではイラストのパネル展示やチュンproのチベットグッズ、拙漫画の販売も(見に行く😊 https://t.co/nIOHiqtGhg
https://twitter.com/kuranishitenten/status/1349357759641178113?s=20
映画は、夢や信仰が生活に結びついているチベット仏教の世界。スピリチュアルという言葉で表すには生々しく日々の生活と夢や信仰が密接に繋がっています。
そんな現実とひとつながりの夢のなか、草地の向こう、風紋で楊柳生地のような砂山を子どもたちが駆けていく風景には、日本の写真家・植田正治の鳥取砂丘の幻想的な作品を思い出したり。
いっぽう姉妹の関係のかすかな苦みには小津みを感じたり、おじいちゃんが亡くなって家に飛び込んでくるお父さんの顔のアップの照明とカメラワークにアニメっぽさを感じたり。
最後、彼女の決断は、風船のように宙に浮いたまま。そして子どもたちが風船から目を離せないように、観客は彼女から目を逸らすことはできなくなっています。夢の中で彼女の決断を見るかもしれません。
買って帰ったパンフレットを眺めながら、日本では夢と仏教といえば明恵上人だな、などと考えています。
ドッペルゲンガー包囲網
ええ、また出ました。わたしのドッペルゲンガー。
今度はしばらく会えてない友人にです。
「ついに私も会えた!!!」ってドッペルゲンガーはレアキャラか? って、レアキャラですね。「お正月に●が原宿で見た」というのは前回のドッペルゲンガー記録のこの件です。
ぼんやり気味だけど、信号は変わったらすぐ渡る派です。せっかちなので。あと雨に濡れるのは猫なみに厭なので楽しめません。
しかし、背が高くてメタルフレームの眼鏡にひっつめ髪って……。わたしは外では眼鏡かけないけど、わたしの要素じゃん!!! ひー! あ、「よく投稿してるペンギンの画像」はSNSにポストしてるこういう色のこと。
ここから以前にこのブログに載せたドッペルゲンガーの話など。
そう、繰り返しになりますが、わたしはわりと背が高い。ふつうに靴を履くと、ハイヒールじゃなくても175センチくらいにはなります。待ち合わせのときに便利とよく言われます。
顔は「チベット人の親戚にこういう人いる!(在日チベット人に)」「インドで似た人を見た(インド長期旅行から帰った人に)」「アイスランド人っぽい(たぶんイヌイット系の先住民のことでしょう)」「ねーねーはどこの島の人なのぉ?(沖縄居酒屋で)」と言われる顔です。えーと、ざっくり言って、大陸系?(ざっくりすぎ)
⑨のあたりは過去に書いたこちらのドッペルゲンガー話なので割愛。しかし、ドッペルゲンガー目撃情報、ほんとにGoogleマップとかで記録しようかな。
で、⑩のこれがね、ほんと困るんですよね。どこかでわたしのドッペルゲンガーに会った人が「無視された」「感じ悪い」とか思ってたらと思うと。分身の術じゃないから、わたしの代わりに仕事に行ってもらうとか、ボランティアしてもらうとかもできないし……。
ところで最近、このドッペルゲンガーの目撃頻度が上がっているのは、みんなの顔の下半分が隠れるマスクのせいでしょうか。それとも、春だし、増殖……?
春の腰痛
春の腰痛が来た。四足歩行の哺乳類だったころの痕跡か、人間の骨盤は春先と秋冬に向けての年に二回、動く仕組みになっている。春先は開き、秋冬に向けては閉じていくのだが、ぎっくり腰は実はその骨盤の開閉に連れて起こりやすい。どっちだったか忘れたか、その時骨盤は必ず片側から開いて、あるいは閉じて行くので、開ききる、あるいは閉じきるまで骨盤は左右非対称となり身体のバランスが崩れる。そのため、ぎっくり腰とまでいかなくとも、腰をいわしやすくなるのだ。これはたとえば片山洋次郎さんなどの整体の本に書いてあることである(どの本か失念しましたが、たぶんこのあたり↓)。
さて、わたしはここ数年、この季節の骨盤の動きに連れての腰痛が定期的に来るようになった。理由はたぶん、無理が効かない年齢になってから始めたバレエのレッスンである。バレエのレッスンにより、今までガチガチだった身体が少し可動域が広くなってきて起こっているのだと思う。それは言い換えれば、バレエのレッスンに行き始める前は、季節の骨盤の動きも感じられないほどに身体がガチガチであったということでもあるのではないかと思っている。
そう考えると、この季節の腰痛が来るとぎっくり腰に発展する可能性もあり、しばらくバレエのレッスンどころではなくなるのだが、骨盤の動く時季なのだと思って、温めて骨盤が開くのを促進しつつ、じっと待つしかないかな、とも思えてくる。
ただ、これは立っている時が一番楽で(おそらく開きつつある骨盤に上半身という重石をかけることになるため)、でもずっと立っている体力などなく、二番目は横になっていることだが、これは寝起きの動きが腰に来るのが難点、三番目は椅子に腰掛けていることだけれど、なにせ骨盤が左右非対称になっているので、気付くと脚を組んでしまって身体の歪みを助長している気にもなり、つまりどうにも身の置き所がない。そして楽とはいってもどの姿勢でも腰回りが厭ぁな感じに痛んでいるのだ。
早く開ききらないかなあ、今季のわたしの骨盤。嗚呼、コロナ禍でもなければ温泉に湯治にでも行きたいよ、とゲームの中のペンギンを羨ましく思ったりなどしている。
三つの『赤い靴』
来日予定だったのが新型コロナ禍で中止になったマシュー・ボーンの『赤い靴』を映画バージョンで見た。このご時世で以前のように隣に他人がいての映画鑑賞はちょっと控えたいというバレエ好き、映画好きが、ル・シネマでの座席を市松状に間引いての上映に殺到しているのか、それとも一日一回上映だからか、連日チケット予約は争奪戦状態。好評を受けて二月十九日からは一日三回上映決定、三月にもアンコール上映が決まった。
華麗な表現で語られる、芸術を生業にした時に生活とのバランスをどうやりくりするか、という泥臭いテーマは原作映画そのまま。自分がそういう方面のプロじゃなくてよかったと思わず安堵してしまうほど怖い。アンデルセンの『赤い靴』でもあり、1948年のイギリス映画『赤い靴』でもあり、バレエ・リュス抄でもある。
ただ、帰宅して原作映画を見てみると、マシュー・ボーン版は原作よりエピソードや人物描写を整理していて、芸術のために突っ走る異常者具合が若干、マイルドになっていることに気づく。というか、原作映画は今見ると芸術は爆発ならぬ、芸術は狂気、という恐怖に襲われる。
ところでこの1948年制作の映画、日本公開はわたしが生まれるより前の1950年、テレビ放映は1971年だそうだけど、それよりあとにどこかで見た気がする……。バレエ映画特集番組とかで抜粋を見たのだろうか。そしてその時は、才能あるバレリーナであっても結婚したら主婦業に専念するのが「ふつう」という旧来の価値観にどっぷりはまっていたので、悲劇具合をよく理解できてなかったのが、2021年の今見ると、バレエ団長レルモントフより主人公と結婚して独占しようとするクラスターのほうがヤバい、ヤバすぎると寒気がする。端的に言って、ストーカー。
もちろん怖いだけではなく、貴族のパーティもバレエシーンも電車の個室の内装も南仏のホテルも万年筆などデスク回りのものも美しく調えられていて、贅沢な気分に浸れる。それと同時に日本語字幕の間から漏れ聞こえる英語のセリフ回しも、箴言的なフレーズのカッコよさが刺さる。それだけに、劇中バレエ版『赤い靴』のラストと重なる映画の結末の悲劇性がより引き立つのだった。あとレルモントフの朝食シーンは『カリオストロの城』の伯爵の食事シーンの元ネタだと思ってる。
ところでこの二つの映画の原作であるアンデルセンの『赤い靴』は、小さい頃読んで、「そんなことで教会に入れなくする神様って狭量だな」と思ったものだが、だんだんとあれは「神の家としての教会」ではなく「人間がうごめく村社会の象徴」なのだろうな、と思うようになった。アンデルセンのこの童話の創作裏話を知って、その思いはさらに深まり確信になったとさ。