高畑勲展@東京国立近代美術館
終了直前ギリギリに高畑勲展。けど、天才の仕事を、天才性の求められない仕事をしている凡人が仕事前に見るもんじゃないですね。仕事とは……。仕事って、なんだっけ……。みたいなことになるので。
というのも、とにかくその才能と容赦ない仕事ぶりに圧倒されるわけです。身終えるとグッズとか買う気も起こらないくらい。本は買ったけど。
宮崎駿も自分のアニメを作りたいという気持ちと同時に、「このままこの人といるとすり潰されるのでは」という恐怖で途中から逃げ出したんじゃないだろうかと、『母を訪ねて三千里』での製作陣の言葉から邪推したほどの容赦なさ。むしろ最後のかぐや姫までつきあった背景の男鹿和雄たちは凄い!
迷ってる方は最終日にぜひ。なお図録は先払いの自宅配送になります。あと音声ガイド借りたんだけど、これがとてもよかった! 関係者の肉声コメントが聞けます。この音声ガイド含め、監修者や近美のキュレーターさんの仕事ぶりも容赦なかったです。凄いものを見ました(ただ、入り口付近の遡る年譜だけは、逆流してくる人の流れを考えてほしかった……)。
両国ギョーザステーション
すっかり涼しくなって、暑さで死んでいたころの記憶が前世のように感じますが、その暑さと涼しさのあいだ、三途の川くらいのあたりで、両国駅のふだん使われていない3番ホームでギョーザを食べる会に参加してきました。
1テーブル5人で、700円の「ダブルはじめてセット」の、味の素冷凍食品「ギョーザ」1袋(12個入り)、「しょうがギョーザ」1袋(12個入り)とお好きなドリンク1杯+ノベルティ(オリジナル手ぬぐいタオル1枚)を基本にオーダー。
500円の「はじめてセット」である、味の素冷凍食品「ギョーザ」1袋(12個入り)または「しょうがギョーザ」1袋(12個入り)とお好きなドリンク1杯+ノベルティ(オリジナル手ぬぐいタオル1枚)を頼む選択肢はほぼなし。今回のメンバーにおいて、そちらを選択する者は軟弱者!という気配濃厚です。
1皿めを焼きながら見回すと、なんだかドイツのビヤホールのような風景。冷凍だと綺麗に羽根ができて焼ける、というのを知れたのは大きな収穫でした。
ダブルを2セット頼む人もいて、正直、いくつギョーザを食べたのか覚えていませんが、あと一か月はギョーザは食べなくていいかも、というくらいのギョーザ充っぷりでした。とにかく焼いては食べ、食べては焼き、と時間に追われ、それでも制限時間内に焼きあがりそうになく、係の方に声をかけられたのをいいことに2パック焼くのを外注したところ、ものすごくきれいに焼きあがって来たのには、さすがの一言!
栓抜き、小皿、そして撮り忘れたけどグラスにもオリジナルの「ギョーザステーション」の文字が踊っていて、お祭り気分を盛り上げます。
翌日も開催されるのに、コンロや調味料だけじゃなく、毎回、テーブルと椅子を片付けているんだなー、と、終わってからさっきまでギョーザを見せつけながら食べていたホームから、ギョーザステーションの3番ホームを感心しながら眺めたり、次回があればもっと効率よく焼いて食べるぞと決意したり。
楽しくも美味しく、不思議な体験でした。あとで調べたら、味の素のギョーザ事業はかなりの大規模で、このギョーザステーションは感謝祭的な意味合いのイベントみたいです。味の素さん、ありがとう!
老後の計画に理想などない
今週のお題「理想の老後」と言われてふと気づきました。なんとワタクシ、あと五年で池内紀さんが東大を早期退職して「隠居」に入った年齢になるではないですか。
でも当方、凡人なので、五年後も今の仕事を変わらず遊び気分で(霊長類ヒト科アゲアシトリ属ジュウバコツツキ目校正類としては、校正校閲の仕事というのは解きがいのある面白いゲームをしているようなものなのです)、昇進も狙わず(そもそもただただ実務をしていたいだけで、偉くなって実務以外の管理職的な仕事とかをしたくないのです)、奨学金も返済中で資産もないので、勤め人をやっているのではないでしょうか。
あれ、これってもしかして、若い頃「いいなぁ」と思っていたあのアレに極めて近いのでは?!
それに考えてみれば、子どものころからの「何かを読む仕事がしたい」という夢もいつの間にか叶っているんですよね。『もだえ苦しむ活字中毒者地獄の味噌蔵』の活字中毒者、「え・ぽ・き・し」のモデルで、 を構想したあの方が結局、書評家として四十年過ぎたようなものでしょうか。これまであまり平坦な人生を送ってきていませんが、好きなことに食らいつく根性については、自分を褒めてあげたい気分です。
それはいいとして、老後になってもやっていたいこととしては、世間の役に立ちそうもない同人誌を書いたり読んだりすることがあります。
とくに、今夏のコミケ用新刊『クズ度で見る古典バレエ』の背表紙で、印刷屋さんがこんな技を繰り出してくると、「ふふふ、また背表紙に文字が載るかどうか微妙なくらいの薄い本を書こうかな」と思うのです。
しかし、志が低すぎて、というかそもそも志などない老後の計画で、理想などはまったくないですね。なんだろう、退職金でクルーズ旅行とかそういうのが「理想の老後」として想定される正しい答えなのかな?
あ、でもそういえば、似たようなものはありますね。人権において自由になったチベットに、日本で知り合ったチベット人たちと遊びに行くこと。はてさて、この理想、今生の老後で叶うかどうか。
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毒親持ちが見る 映画『フリーソロ』@新宿ピカデリー
わたしは登山記録とバレエを見るのをやめられない。それはどちらも、「人間は、身体をここまで拡張できるなら、 精神も拡張できるのでは」という希望を持たせてくれるからだ。そんなわけで待ちに待ったクライミングのドキュメンタリー映画『 フリーソロ』を見てきた。
この映画と同じ監督コンビによる『MERU』 もここで見たなあと新宿ピカデリーに向かう。あの時と違い、 レディースデーだからか、 アカデミー賞長編ドキュメンタリー賞をとったからか、ほぼ満席! そして今作も監督エリザベス・チャイ・ヴァサヒリイの、 登ることに取り憑かれた人たちの様子を、 単なる記録映像としてではなく、 映画として翻訳する手腕に圧倒される。 この作品はクライミングの映画だけれど、 人間の精神の不思議についても考えさせられる一作なのだ。
撮影対象のアレックス・オノルドはアメリカ人。でも、 家族同士が「アイ・ラブ・ユー」 を言い合わない機能不全家族に育っている。その影響からか、 彼は恋人になかなか「アイ・ラブ・ユー」を言うことができない。
アレックスの母は完璧主義者で、 本人は自覚していないがほんのり毒親。 アレックスが記憶している、 アレックスに寛容でその夢を応援する父親が、 彼女からはなぜかアレックスを抑圧する父親に見えている。アレックス当人は母に完璧を求められて抑圧されていると思っているので、インタビュー場面でも外面よし子さんな母は、 自身の認めたくない姿を夫に付け替えてしまっているのだろう。
アレックスがクライミングでより高い目標、より完璧な対象を追うのは、 この母に育てられたからではないかと思える。そう振る舞うのは挑戦者として悪いことばかりではないけれど、 そのために周囲に精神的負担をかけることを、 アレックスは内心の深いところで気に病んでいるようだ。
そのアレックスが、ほんの一瞬、気を抜いたら即死という標高975メートルのツルッツルの花崗岩の断崖絶壁、エル・キャピタンのフリーソロ・ クライミングを終えたとき、 その精神に起こった変容をわたしたちは見ることができる。 明るくて開けっぴろげな恋人の働きかけはまったく通じていないように見えていたけれど、それは静かにアレックスの中に蓄積していたのだ。それが前人未到の偉大な挑戦を成し遂げたあと、そこからの解放感でようやく噴き出したその瞬間、一度目の緊張からの解放による安堵とは違う種類の、二度目の涙がわたしの頬を流れた。
アレックスはこの変容で、今度は愛を自覚し、失うものを得た者として、今までとは異なる恐怖やプレッシャーと向き合ってクライミングを することになるかもしれない。でもそれは、感情表現に乏しいやつという点から渾名された「ミスター・ スポック」として生きるより、 豊かな人生になるのではないだろうか。
それにしても同じ監督コンビの前作『MERU』もそうだけれど、 今回もどうやって撮ったのかわからないシーンだらけ。ヘリコプターやドローン、望遠撮影はまだわかる(なお今回の『 フリーソロ』 の舞台ヨセミテではドローン撮影が法律で禁止されているとのこと)。でも地上はるか数百メートルの垂直の岩壁で、かすかな突起にアレックスがのせる足のアップとか、 いったいどう撮ったのか。共同監督で撮影監督のジミー・ チンほか、プロのクライマーとプロの山岳写真家のチームにしか撮れない風景 だ。彼らの作り上げたこの風景は、 大きい画面で見ないと意味がないので、 わたしは少なくともあと一回は映画館で見ようと思っている。
※「月刊暗黒通信団注文書」2019年10月号初出原稿を改訂
『ディリリとパリの時間旅行』@恵比寿ガーデンシネマ
美しいものを見たなあ、という感慨に浸ることができるフランス風アニーのような映画です。
「子どもはあんなこと言わないでしょ」と感じるようなディリリの言葉も、「いや、でもここまで徹底的にフランス語を身につけた、しかも女子ならこの年齢でも言うかも」と思わせてくれるのは、フレンチ・マジック。
でも子どもって時々、ハッとするほど哲学的なことや、達観したようなことを言ったりしますよね。そういうハッとする瞬間がちょこちょこあるのは、映画マジック。
そしてなんといってもディリリの動きが、「そうそう、子どもってそういうふうに動くよね!」と思わせる、細かな観察眼に裏打ちされているのです。ディリリが最初に縄跳びをするときの、縄がスカートに少しだけ引っかかる繊細な描写に胸を撃ち抜かれました。
とはいえ、ストーリーはかなり現代のISISや、わたし自身の足元での女性の扱いや、男尊女卑を含む洗脳の恐ろしさについて、あれこれを考えざるをえない展開で、ただ綺麗なだけのものではありません。そこからの脱出劇が軽妙洒脱なので救われますが。
字幕で見ましたが、吹き替えでももう一回見たいなあ。
声はすれども姿は見えず、ほんにスパムは蚊のような
今週のお題「夏を振り返る」ですが、今年の夏も蚊に刺され、そしてなかなか痒みが引いてくれません。しかも暑さがぶり返したせいか、蚊も復活したようで……。あの羽音を聞くと、仕留めるまでは寝られない、と思うのですが、敵もさるもの姿をなかなか現しませんね。
ところでよくあることではあるのですが、ブログのコメント欄にもそんな声はすれどもオリジナリティある姿は見えない、蚊のようなものがときおり現れます。具体的にはこのようなコメントを残す方。
こういったコメントをわたしの書いているようなブログに残す方というのは、少しおつむが理解力が乏しくていらっしゃるのでしょうか? つっこみたいところはいろいろありますが、まず、
「私もブログ始めました。」
「も」というからにはなにかしら共通点があっての「も」だと思うのですが、ブログの内容、始めた時期などまったく共通点が見出せないわけです。まさか知り合いでもあるまいし。
「時間、勉強、労力0でFXができるEA(自動売買)の実績を公開中です」
時間、勉強、労力0でやることが面白いとはとうてい思えないし、面白いと思えないことについてブログを書くことも、わたしにはとうていできそうにないんですよね。
あと、一文の終わりには「。」付けましょうね。全部付けないならまだしも、最初の文には付いてるわけで、付けるのか付けないのか、落ち着かないので統一してほしいものです。
それと、丸括弧が半角なのも趣味じゃないなあ。端的にいって、仲良くなれそうにないタイプ。
「ブログの書き方、参考にさせていただきます!」
そしてなにより、池内紀を追悼するブログの書き方を参考にしたFXブログなるものが、まったく想像がつかない。
もちろん池内紀文体をパスティーシュしてFXブログが書かれるなら、それはそれで面白いかもしれませんが、この短いコメントからだけでも察せられるように、そのような高度な言葉遊びには向いていらっしゃらないように思えます。
でもってわたしのブログは時間、勉強、労力を無駄に使って、何の儲けにもならない言葉遊びに耽る人間が書いているので、スタンスがまったく逆。なので、こういったコメントは残すだけ無駄です。スパムコメントの一種といえますが、スパムのほうが食えるだけマシですね。
なおコメントは以前このエントリのコメント欄のようなことがあって↓承認制にしているので、このスパムコメントもスクリーンショットを撮ったあとは承認せず、さっさと削除させていただきました。
追悼 池内紀さん
いま、『〈ユダヤ人〉という存在 』を少しずつ読んでいる。一昨日、神保町の古書店の店頭で見たその著者の池内紀さんの「追悼コーナー」を、にわかには信じられず。調べたら本当だった。
亡くなる五日前までお仕事されていたのか。すると例のヒトラー本の正誤表も、ご自身での仕事だったのだろうな。会社員だとそうはいかないかもしれないが、ボランティアの仕事などではわたしもかくありたい。 https://t.co/hU6cbaqGrQ
— Mmc (@chevre) September 6, 2019
寂しい気持ちではあるけれど、そういえば池内紀さん、数多ある著書のどこかで「七十七歳で死ぬことにしている」と書いていたのを思い出す。 五十五歳で東大を早期退職したのも、辞めないと死ぬまでにカフカの全作品翻訳ができないからという理由だったのだろうか。
と、思ったら記憶というのはあてにならないもので、池内紀さんが「七十七歳で死ぬ」と決めたのは七十歳の時だったそう。その頃のお仕事で書かれていたのを読んだわたしの脳内で、記憶の捏造が行われたのだろう。
定年後は、そのカフカの翻訳はもとより、ドイツ文学者の範にはおさまらない山歩きや温泉のエッセイで、広範な読者を得た池内紀さん。翻訳のお仕事では『香水』が記憶に新しい。といっても、ハードカバーで三十一年も前なのか!
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いまごろ、 「七十七歳の予定が、一年ずれ込んじゃったなあ」と呟きながら、ゲーテや種村季弘と地獄で温泉につかっているのかもしれない。
中学生くらいからこのかた、愉しい読書の時間をありがとうございました。まだまだ読み切れていない池内紀さんのご本を、これからも読みながら、愉しく老いていきたいものです。