自宅劇場気分づくり
新型コロナ前は隙あらばバレエや演劇を見に劇場に行っていた。なにごとも遅刻しがちなわたしだが、劇場に行くのに遅刻したことは1〜2回しかない。
ところが新型コロナ流行後にSTAY HOME 向けに世界各国のバレエ団や劇場の演目がネットで見られるようになっても、なぜか帰宅後や休みの日にそれをどんどん消化していくということにはならなかった。
一つにはわたしがリモートワークしにくい職種であって、前回の緊急事態宣言の際も時短勤務になっただけということがある。時短であっても通勤しているだけで、いや通勤しているからこそ感染対策に気を使ったりして気疲れしてしまい、帰り着いた家で、手洗い、うがい、拭くメイク落とし、スマホと腕時計の消毒などの感染要因を除去するルーティンを行ったあとに、さっさと気分を切り替えて、わくわくしてネット鑑賞する気持ちにはなかなかなれないのだ。
思えばリアルに劇場に行く場合は、チケットを取る日を決め、演目によっては夫の人や友だちに声をかけ、会社に休みを申請し、チケット代を振り込み、届いたチケットをお気に入りのチケットホルダーに入れ、お天気がよければ演目に合った和装でもしようと、場合によっては何か月も前から「その日」に向けて気持ちを盛り上げていた。わくわく感を自家醸成していたのである。
しかし自宅でネット鑑賞となると、誰に都合を合わせるでもなく、特におしゃれもせず、なんなら寝起きでタブレットを開くだけでいいのだ。なのに、なぜ鑑賞が捗らないのか?
それはやはり、リアルに劇場に行く際の盛り上げ期間がないからじゃないかしらん。あとどんな演目もだいたい三日以上、長いのは一か月とか公開してるのも「今日じゃなくても、いっか」気分になりがちなのである。そしていざPCで見始めると、演目中の気になることを途中で動画を止めて調べることもできてしまうし、宅配便が来たら立って応対もするしで、注意散漫になりがち。
さて、最後のこの注意散漫くらいはなんとかならないか、と思って、あるときヘッドフォンを装着してみた。そうしたら過去に劇場で収録された作品だと、劇場内のざわめきも拾うせいか、自分も劇場、それも真正面の席に座っているような感覚で集中して見ることができたのだった。ノイズキャンセリングヘッドフォンだともっといいのかも?と思いつつ、宅配便とかが気になるので、こちらはまだ試していないけど、自宅での擬似劇場環境づくりにヘッドフォンは欠かせないと気付いた。
あとは演目がネットで公開されたらさっさと見る! 三日間限定公開だと却って焦って早めに見るんだけどね……。
Words make the person
「◯◯さんが親だなんて、ズルい」
そんな「ズルい」の使い方に違和感がある。「ズルい」というのはわたしにとっては、意識的にズルいことをした点について責める言葉、もしくは依怙贔屓のように、ズルをさせよう、下駄を履かせようという行為を咎める言葉だからだ。
◯◯さんが親であることがズルい、というのは本人には選択しがたいことであって、そう言われてもその「ズル」を是正するために、本人には何をどうすることもできない。それを「ズルい」というのは言うほうにも言われるほうにもよろしくないと思うのだ。というのも、物心ついて以降、人間は自分の使う言葉で形作られるからだ。
スパイアクション映画『キングスマン』には、"Manners maketh man."というフレーズが登場する。maketh はmakeの古い形で、三人称単数現在形。"Manners maketh man."は、「マナーが人を作る」=家柄や遺伝的な血筋ではなく、礼節が紳士を作るのだ、という意味であることが映画を通して描かれる。
それと同様に、使う言葉は人を作るのだ。たとえば、なにかモヤモヤして表現しがたい気持ちを言葉で表すことができたとき、わたしたちはどう感じるかを考えてみよう。その気持ちを表した言葉が完全にフィットしていると思える時ばかりならいいけれど、言葉で表しきれない部分が幾許か取り残されてしまうこともあるのではないかと思う。
その取り残された部分、モヤモヤした気分の残りはどうなるだろうか。残念ながら、よほど鋭敏な感覚の人でない限り、言葉で表し切れなかった、そうした「部分」は記憶にいつまでも残らず、忘れられていく。そうなると、言葉を慎重に、自分の気分になるべく合うように使わないと、独自性のある人格などは形成されない。十把一絡げの「どこにでもいるひと」の出来上がりである。
そうならないために、本を読んで言葉を知り、美しいものを見たり聞いたりして、そこで得た気分をどう言い表すかを考える習慣を持っていたい。また、自分が「あのようになりたい」と思う人物がいれば、そのひとの言葉の使い方を観察してみるのもいい。繰り返すが、人間は思考するための言葉によって生成されているからだ。
そのように慎重に言葉を使わず、「羨ましい」「いいなぁ」と感じる状況に、周りが言っているからと、「ズルい」という言葉を使っていると、真に「羨ましい」と思う憧れのような気持ちは切り捨てられ、責める気分を表す「ズルい」という言葉で記憶が固定されていく。「ズルい」と表現しなければ、「羨ましい」という気分から「じぶんもああなりたい、では、そうなるにはどうしたらいいか」という思考が展開したかもしれないのに、である。
また、「羨ましい」という状況を「ズルい」と表現しているところを見た他者に、「この人、雑な言葉の使い方だな」とか、「ズルいと言われても◯◯さんのお子さんも困るやでは」と否定的な評価を持たれる可能性もある。「なさけはひとのためならず」ではないけれど、自分がなにをどのような言葉を使って思い考えているか、をときどきでも意識することは、最終的に自律した自分を作ってくれるように思う。
ただ、まれに言葉に表し切れなかった気分そのものではなく、それを忘れてしまったという喪失感だけが残ることもある。その喪失感をなんと名づけるべきだろう。それをずっと考えているのだけれど、どうも思いつかない。
映画『私をくいとめて』@ヒューマントラストシネマ渋谷
能年玲奈(のん)を心置きなく鑑賞できる映画でした。のんの鼻の付け根ってけっこう上のほうだったんだな、とか。
というと「アイドル映画かよ?」と思われそうだけど、アイドルがアイドルであるというだけで夢中になれる年齢をだいぶ過ぎてしまったので、脚本や演出や大道具小道具がマッチした作品じゃないと到底「心置きなく」はなれない。その意味で隠し包丁みたいにすごーく丁寧に作ってあるんだけど、それを見る側にあからさまに感じさせない手の込んだ佳作。同い年の友達が言っていたけれど、能年玲奈をもっと見たくなる、見ていたくなる一本。
そして、見ていると色々なものがオーバーラップするのも全部、監督の手の内なのかな、と思えてきたり。たとえば橋のシーンは『あまちゃん』みたいに公式にはなかったかのようにされている、広末涼子の映画デビュー作『20世紀ノスタルジア』を思い出す。
映画『真実 La Vérité』@渋谷humaxシネマ(2019年10月15日)
真実(原題 La Vérité )- 映画特報 第76回ヴェネツィア国際映画祭2019オープニング作品
もう一昨年になってしまいましたが、是枝裕和新作映画『真実 La Vérité』を見ていました。カトリーヌ・ドヌーヴと脚本が怖かった。大女優の業がこれでもかと描かれる脚本が容赦なく、亡くしたライバルにフランソワーズ・ドルレアックを思わざるを得ないし*1、映画内映画の脚本も輪をかけて追い詰めてくるし、それを演じてるドヌーヴの演技が凄まじいし、「もしかしてそこは地ですか?」と震えるところもあり。最後はいい話ふうに和やかな音楽で終わるけど、ひんやりする映画でした。
ある意味、楳図かずおの『洗礼』を母側からの視点で、現実的なよしなしごとがあって小学生の娘みたいにはホラーに純化できないよな展開にしたような怖さ。毒親持ちじゃなければ、「なんだかんだ言っても呆れとともに親の老いを受け入れるしかないのよね」という感想になるのかもしれませんが……。
女優同士の映画内映画のバチバチや演技合戦も、いろいろと怖いです。怖さの一つは、75歳にしていまだにちょこちょことハッとする美しさで圧倒するドヌーヴにもあり。
吹き替え版に興味があったけど、大女優→娘→孫のフランス語血族と、娘→その夫→バイリンガルの孫のアメリカ英語家族の微妙さを、吹き替えではなかなか反映できないだろうなと思うと、見ない方がいいのかなあ。娘役のジュリエット・ビノシュと、声を吹き替えている女優さんの年齢差も気になるし。
ヤンキーっぽさと騙しのテクニック
◆ヤンキーっぽいバレエ
前に同人誌にも少し書いた件。コッペリアってみんな笑いながら見てるけど、残酷な話だと思う。
誰に迷惑かけるでもなく自分好みの自動人形作ってた、発明オタクのキモくてカネのないおっさんが落とした鍵を、ヤンキーっぽい不良集団が拾って隠匿、その鍵で無断侵入しておっさんの作った自動人形を壊しまくるわけだから。
そりゃ、発明に打ち込むあまりに若い男の生命を自動人形に移植しようとしたおっさんも問題あるけどさあ。それは当然、失敗してるのに、この動画のシーンのように成功したように振る舞うのも、相当、罪深いと思う。
女性が旧来の女性役割に縛られている演目のストーリーを、現代的に解釈し直すのも大事だけど、女性に限らずいろんな意味で「弱者」を笑うストーリーがさいきん、居心地悪く感じている。
◆黒鳥のシーン
思えば、『白鳥の湖』で、この黒鳥のシーンを見ているわたしたちというのは、なかなか奇妙な状況にある。劇中の王子は悪魔の使い魔である黒鳥が白鳥の偽者だとは知らないが、白鳥たちと多くの観客は知っている。
にもかかわらず、ラストで白鳥か王子、もしくは両方が黒鳥の使い手である悪魔に負けるか打ち克つかに関係なく、黒鳥=悪がいかに上手く王子を騙しおおせるかを観客は期待して見ているのだから。
「情報」について
◆ローカル線の旅
数か月前に帰省がてら咲花温泉に行った。
新潟駅で決して旅行代理店の出す旅程どおりの番線から出ない新津行きに無事、乗り込み、新津でも同じシステムのところ、無事、磐越西線に乗り換え。咲花温泉行はいつも東京から新潟駅に着いてからがスリリング。
コロナ禍下の生活 :近未来編
「前回の抗体検査の結果をお願いします」
「診察券番号は」
「00002501」
「合言葉は」
「春の祭典」
電話の向こうで主治医が笑う。
「ふふっ。ベジャール 。さて今回も陰性でした。引き続き今まで通り、
「はい、先生もお気をつけて」
ふふっ、とまた主治医は笑いながら電話は切れた。小春日和の汗で湿ったスマホの表面を拭いてポケットに仕舞ったのが三か月前。
新型コロナ禍で、通勤通学者の定期的な抗体検査が義務付けられ、
内勤だからか勤め先に三か月に一度と決められた抗体検査を受けに
クリニックに着くと診察券をドア横のパネルにタッチし、
短い廊下の天井から噴霧される水蒸気を受けながら診察室に着くと
晴れた青空のもと、
ピコン。スマホが鳴った。薬局に向かい、
ピコン。スマホが鳴る。
店を出た直後にスマホが鳴る。店の脇の駐輪場で「消毒済み」
オフィス脇の駐輪場に電動自転車を返却して出社すると、
コクーン内部も当然、
ファミリータイプのコクーンには乗らずじまいだったな。
三か月に一度の主治医とのアクリル越しの会話や、
その前は? ファミリータイプのコクーンが存在するずっと前、
ピコン音と共に最寄駅に着き、
世界はコロナとコクーンとスマホに覆われている。正しくは、
昼間、公園で見た枯れ葉をつけたままの冬木立を思い出す。
※「月刊暗黒通信団注文書」2020年12月号初出、一部改訂