ダムタイプ「2020」(12/25~27映像配信)
コンテンポラリーダンスを見るのには、クラシックバレエとは違う集中力を要すると思う。ダムタイプの十八年ぶりの新作のこれは、リアルで見る方が集中力がもつパフォーマンスだろうなーと思いつつ、二回に分けて見た。後半に行くに連れ池田亮司の表現にダンスのそれが従属してるかなとも感じたけど、面白かった。
思うにクラシックバレエは既知のものをいかに超えるかを迎え撃つようにみるけど、コンテンポラリー、特に初見のものはどんなところをどんなふうに刺激されるか未知なので、アンテナを張り巡らせて待ち受けるように、つまりは警戒しながら見るので、クラシックバレエとは見方が違ってくるのだと思う。幕間にがくんと眠くなるのもたぶんそのせい。
その意味でこの作品に限らず、生ではなくウェブでダンスを見るにはノイズキャンセリングヘッドフォンでの鑑賞をおすすめしたい。この作品はバレエと違って「言葉」も舞ったりするので。
2020年買ってよかったものあれこれ
モヤモヤ系エントリが続いたので景気よくお題「#買って良かった2020 」に参加。
まずはキッチン用品でこちら。ぴかぴかじゃなくてつや消しなのも好きなところ。
#2020年買ってよかったもの
— Mmc (@chevre) 2020年12月11日
燕三条のアルミのアイスクリームスプーン。アイスがさくさく食べられる上、ジャムを瓶から出すにもパンに塗るにも使いやすい! むしろアイス以外でよく使う。あと熱伝導率がものすごいので、猫舌のわたしは熱い飲み物にこれを突っ込むと少し早く冷めることを覚えた。 pic.twitter.com/DZXlO3ezMs
キッチン用品ではほかにこちらをリピ買い。ていねいな暮らしとか無縁なので、やはりこの手の鍋釜が便利なのです。ちなみに鉄フライパン、鉄卵焼き器をダメにした過去あり……。
#2020年買ってよかったもの
— Mmc (@chevre) 2020年12月11日
ティファールセット9。鍋釜を減らす方向で、もともと使ってたティファールが一つずつ引退し、無骨なパスタ鍋やシェフがソース作るような小鍋が仲間入りしてたんですが、結局使い勝手の良さでティファールに回帰。進化したティファール、底の輪っかが騙し絵みたいで面白い。 pic.twitter.com/yoZg0mOeyC
ところでわたしは貧血なのもあり、爪に縦の筋が入りがちなのですが、近年それが山脈化してネイルカラーを超厚塗りしないといけなくなっていました。そこでおすすめされたネイル下地を買ってみました。
#2020年買ってよかったもの
— Mmc (@chevre) 2020年12月11日
爪グッズその1。ロングルアージュのネイルベースパーフェクター。ネイルベースはかなり爪の縦筋を目立たなくさせてくれる。 pic.twitter.com/CZv7qLSYGF
完全に縦の筋が消えるわけではないのですが、かなりなめらかになってネイルも楽しく塗れるようになりました。なおこれのみを塗るだけでもこんな感じ↓に健康的な色艶になります。
NBSの素敵な切手シリーズ。ふと思ったけど、「この切手で返ってくる封筒はこの用途」だと一目でわかる役割もあったりするのかな? pic.twitter.com/MtaWjQB9F6
— Mmc (@chevre) 2020年10月23日
となるとほかのネイル用品にも目が向いて、次に買ったのはこちら。
#2020年買ってよかったもの
— Mmc (@chevre) 2020年12月11日
爪グッズその2。オサジのコンフォータブルマットトップコート。ネイルカラーがみるみる磨りガラス越しみたいなマットな見た目と陶器みたいな手触りに。しかもネイルカラーごと乾くのが速い! pic.twitter.com/qx9kWQnJ28
どんな感じかというと、わかりにくいですがこんな感じ↓になります。
塗るとマットになるトップコート、魔法みたい。メタリックなカラーに塗ったらほんとに磨りガラス越しみたいになった! わかりにくいけど、左がマットなトップコートあり、右がなしです。#何の報告かわかりませんが pic.twitter.com/XOVSfhMlr3
— Mmc (@chevre) 2020年11月20日
とくにラメ系やメタリック系のネイルカラーの変化が楽しい。派手過ぎて使わなくなっていたそれ系の色が復活しそうです。
さて本とか服とかお茶とか食べ物になると際限なくなりそうなのですが、食べ物でこれだけは!
食べ物で挙げると際限なくなるので一つというか一種類。六花亭の「おやつ屋さん」には今年後半お世話になりました。今月でやめようと思っても、次月のチラシにも必ず自分の好物が入っていて、なし崩しに毎月……。悪いお人……🤤 #2020年買ってよかったもの pic.twitter.com/HP2UaGDtug
— Mmc (@chevre) 2020年12月12日
今月もクリスマスに向けて届くのを待っているところです。「家に帰れば美味しいおやつがある!」というのは、外出時にストレスを感じるこの新型コロナ禍ではかなり心強い!
映画『魔女がいっぱい』にモヤモヤ
『赤毛のアン』の二次創作を見る思い
Netflixの『アンという名の少女』、アン・シャーリー役やリンド夫人役が子どもの頃から想像していた見た目にぴったりで、最初は喜んで見ていました。高畑勲さんが見ていたら嫉妬してしまうんじゃなかろうか、と思ったくらい。マリラとマシューが綺麗めなのを意外に思ったくらい。
が、原作からの改変がどんどん増えていき、だんだんと「?」という気持ちに。とくに紫水晶エピソードが改変されてるあたりから、「?」となってきて、詐欺師とかギルバートの船乗りエピソードにはちょっと引いていました。レイヤーケーキの件も盛りすぎというか……。マリラとマシューの過去エピソードは余計に感じないんだけどなあ。
結局、「これは並行世界のアンの物語なんだ」「アンが好きすぎる人に寄る二次創作なんだ」と思うようにして最後まで見たNetflixの『アンという名の少女』。ここで私的「許せない改変箇所」ワースト3を上げていきたいと思います。
マクドナルドで告げられる運命
コーヒー味のお菓子に目がないので、ティラミス味の三角パイを食べに、うっかりマクドナルドに行った。
開けてちょっと後悔。このパイは焼いてあるんじゃなくて揚げてあるし、猫舌のわたしは中のクリームが熱くてうまく食べられないのを忘れてた。
ちゃんと閉じてないらしきパイのどこかからクリームが出てしまったりなどがあってようやく食べ終え、「これならティラミス買ってきて自分で10枚切り食パンでホットサンドにした方がよかったんじゃないか」とため息をついたところで、ケースのベロになにか書いてあるのを見つけた。
そんなこと言われても……。いや待てよ? 運命の人といっても必ずしもラブラブな運命とは限らないよな。「やつを殺すまではわたしは死ねん!」みたいなのも運命といえば運命だし、しかしそれを言ったら隣の席で笑い転げてる女子校生も、今日この時、わたしが三角ティラミスパイを食べる時に隣の席で笑い転げるという運命の人なわけだし、わたしが食べ終わってトレイを片付ける時に近くの席でスマホゲーに没頭している人も、わたしがトレイを片付ける時にその席に座っているという運命の人なわけだし、店を出て前で信号待ちしている時に同じ方向に向いて待っている人も、横断歩道の向こう側の人も今日この時ここで行き合う運命の人たちなんであって、運命の人と言い出せば、正しくは出会う人行き交う人すべてが運命の人なのである。
って、この話、たぶん前にもしたよね。
『アイヌモシㇼ(AINU MOSIR)』@ユーロスペース
思った以上にガツンとやられた映画だった。去年、旅行してきた先を舞台に、いかに自分が彼らから簒奪し続けているかを突き付けられるのだ。
同時に、じゃあ洋服を着て椅子とテーブルで生活して、チベット人という少数民族支援を細々と支援している自分はなんなんだ?という気持ちにもなる。そんなこんなで打ちのめされて、日本民藝館で特別展『アイヌの美しい手仕事』をハシゴするつもりが、そのまま帰ってきてこれを書いている。
映画は、冒頭の位牌と前半の仏事が、まずもう居た堪れない。ここがキツかったのは、日本で宗教的にマイノリティなカトリック・コミュニティで、仏事をほとんど知らずに育ったわたしの事情もあるとは思う。もちろんキツいだけではなくて、最後にまた位牌が写るシーンまでに、「あれ、じゃあ押し付けられてる仏教的に送る儀式は無効ってことなんじゃ?」と、思わせてくれる。
ただ、そこまでの要所要所で、アイヌの人々が日本語で明治時代のアイヌの出来事を学んでいたり、儀式の最中にふとカメラが写すのは「カタカナ」で音写されたアイヌ語の奏上文だったりと、ところどころに居心地の悪いシーンが挟まれる。だが、それこそがこの映画の存在理由の大きな一つだと思う。
また、演者がみんな素晴らしく、ある意味、物静かなアイヌ版『ミッドサマー』であり、かつアイヌ自身がアイヌを演じている点で、より良作だと思う。
あと、リリー・フランキーは胡散臭いおっさん演らせるとほんと上手いね! 彼の存在が、映画のドキュメンタリー的な部分と現実的な作劇部分、ファンタジックな部分を繋げる米糊的な役割にもなっているのではないだろうか。
栗田 哲男 写真展:チベット、十字架に祈る@キヤノンギャラリー銀座
子どもの頃、クリスマスの時期になると、「なぜ近所のみんなもおうちでクリスマスケーキを食べたりプレゼントをもらったりしているのに、教会のクリスマスミサには来ないのだろう?」と考えていた。
そんなことを思い出したのは、この写真展の作品では、キリスト教徒ではないチベット人も教会で、キリスト教徒のチベット人と共にクリスマスのケーキを食べて笑い合っていたからだ。
わたしが育った日本のカトリック・コミュニティではそういう世間との融和はあまりなく、コミュニティの外には日本の「世間」があり、社会はその両者の上に覆いかぶさっているように感じていた。
ローマ教皇が東京に来てのミサに参加するので学校を休んだ時の周囲の反応には、「ははァ、これが『異端者』への態度か」と思ったものだし、主に外見的な要因から、「お前のお母さん吸血鬼だろ?」などとからかわれた時には発想の飛躍についていけずに、どう反応したらいいのかわからなかった。
ただ、そうした世間との軋轢があったために、ほかの宗教やその文化に早くから興味を持ち、ひいてはチベット支援をするに至ったことは確かだ。
そういう過去があってこの写真展を見ると、解説していただいた教会堂建設や宣教師の神父の墓所造成の経緯、入り口から右繞して見てきて最後になる作品の見方も含め、意義深い鑑賞体験だった。
教会堂は所々の意匠がチベット文化風。龍や鳳凰が天使と並んで吉兆として描かれ、チベット仏教紋様のエンドレス・ノットが侍者室と思しきドアの上の壁に繰り返し描かれていた。そこに、チベット人大工たちの「喜ばしい意匠を使おう」という意気が感じられるようだった。
その外観はまるで中世ヨーロッパの博物誌にある、ヨーロッパの人々が伝聞や想像からカトリック教会を雛形にして描いた東洋の寺院のように、エキゾチックな造り。堂内の造り自体はわたしもなじみ深い、内陣に向かって身廊、その左右に側廊、身廊の入り口に前室という形式。袖廊はないようにも見える。堂内のアーチ部分中央に描かれる天使は、ヨーロッパでは顔だけの幼児の左右に翼が広がっているところ、大人の顔に翼が生えている。ちょっとこわい。
神父の墓所は小さなお堂のような、入り口部分は沖縄の亀甲墓にも似ているような形で、お墓を作る習慣のないチベット人たちが、土葬が基本のカトリック教徒のために作ってくれたのだな、と思うとなにか泣けてきた。
そして、当たり前だが、写真に写る人々の祈りの時間の表情は、かつてチベット仏教徒の写真で見たものと同じ真摯で真剣なもので、そこに胸を衝かれた。
ところで、会場では時折チベット語の典礼聖歌が流れるのだが、言語に引きずられてか、ラテン語聖歌の名残はほとんどない。だが、わたしはどこかでこれによく似たものを聞いたことがある。なんだっただろう……。しばらくして思い出したそれは、長崎の「オラショ」だった。
さて、いちばん大きく引き延ばしてある写真の一つ、合唱隊席から見下ろしているような教会堂の写真内に写る掲示板に、「二十三主日」とあった。この日に読まれる福音は、マタイ書18章15〜20節。その文末にはこうある。
はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。
チベット仏教徒と、チベット人のキリスト教徒が融和して生きる共同体を写したこの写真展に、なんとなく響き合う言葉であるように思いながら読んだ。
※この写真展は東京・銀座では11月4日まででしたが、大阪ではキヤノンギャラリー大阪で12月3日〜9日に開催されます。テーマの一つは「マイノリティーの中に存在するマイノリティー」。お近くの方、ぜひご覧ください。