いえのなか 《連作短編集「デッドロックのはずれ方」4-1》
「じゃあ月曜にねー」
詩緒がバスの中から手を振り、実佳と久実も手を振った。バスがのそりと車線に戻る間に、二人は歩道を走って歩道橋まで行き、階段を駆け上がると手すりに肘をのせ、そこに顎をのせて、そこからバスを見送った。
「今日、なんかごめんね」
「ん? うん、いいよ、別に」
「ハンカチにミルカのチョコつけて返す、月曜」
久実は腫れのだいぶ退いた顔に、夕暮れの風が心地いいな、と思っていた。
「だからー、いいって」
「でも」
「そんなさ、中でも外でも気ぃ使ってたら、疲れちゃわない?」
実佳は前を向いたまま言った。
「お母さんの言うこともさ、表面的にハイハイって聞きながしたって、いいと思うよ。ぜんぶ受け入れなくってもさ」
「そうかな……」
「そうだよ」
さっきまで夕焼けに照らされていた道路はもう暗くなり、車のライトがふよふよと漂う。
「泣くほど溜め込む前にさ、受け流すようにするっていうのも、いいんじゃない」
実佳は言い終わるとサブバッグで久実のお尻をはたく。
「さ、帰ろ帰ろ!」
「蛙が鳴くからかーえろケロケロ」
「ゲロゲロッ」
ふたりは上ってきたのと反対側の階段を、笑い転げながら駆け下りていった。
■ ■ ■
実佳と久実の家は裏口を接して隣同士だ。家の面している通りがちがうことで、小学校の学区はちがったが、ふたりは小さい頃から遊ぶ仲で、中学で同じ学区になってからはさらに仲良くなった。
実佳は、久実の母が苦手だった。なんなら、怖かったとも言っていい。道端で久実と遊んでいるときの、久実母の、笑顔でいながらなにか値踏みをするような眼が怖かった。その眼で、久実の誕生会に集まったクラスメイトを見ているのも怖かった。
(久実のお母さん、なに観察してるんだろう)
ほかにそんな眼をしている人間を、実佳は知らなかった。でも、久実母がなにかを観察しているのだと直感していた。その見当がなんとなくついたのは、五つ上の実佳の兄が、家の中で暴れるようになってからだった。
(お兄ちゃん、久実のお母さんと同じ目してる)
母に言うことを聞かせるために、父や同居の祖母に何かを働きかけているとき、中身の入ったお椀を、巧妙に母に当たらないようにぶちまけるとき、兄は久実母と同じ眼をしていた。過去形なのは、母があるときキレて、兄が全寮制の学校に行かされたからだ。いま、長い休みになると帰省してくる兄は、あの眼をしていない。まるで、あのころはなにかに取り憑かれていたかのように。
(あれは、なんだったんだろう。久実のお母さんも、いつかふつうになるのかな)
実佳は、小学四年の大晦日、久実と、電話越しに年越ししようとして久実母に電話を取り次いでもらえなかったときのことを思い出した。久実は翌日にものすごく謝ってきた。実佳は「いいよいいよ」と言いながら、久実母の電話応対の冷たさに、久実は大丈夫なのだろうか、と思い始めていた。
実佳からすると、久実母は、久実に言うことを聞かせるために、なにか圧力をかけているように見えた。母子ふたりが一緒に行動しているとき、楽しそうなのは久実母だけなのだ。久実は、母になにか言われると楽しそうな顔をする。でも、久実母が買い物とかで、なにかを物色しているとき、久実の顔に表情はない。実佳は、それが気になっていた。自分たちといるときも、久実はときどき、その顔になっているからだ。そしてそれは、兄が荒れていたときに、実佳の母がよくしていた顔でもあった。
(うちのおかんは大人だし、親だし、お兄ちゃんに強く出られたけど、久実は、どうなんだろう)
久実が、実佳の母のように強い態度をとるのが、実佳には予想できなかった。実佳は、表情のない久実を見かけると、久実母が、久実に「人柱になれ」と呪いをかけているようにさえ感じていた。けれど、それはなんのための「柱」なのか、実佳にはいくら考えても、わからなかった。