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いえのそとへ 《連作短編集「デッドロックのはずれ方」6・終》

「西野さん、職員室まで、ちょっと」

 

 部室に行こうとカバンとフルートケースを提げたところに、顧問の内田先生が眼鏡を押さえながら走って来て真顔で言った。

 

(なんだろう、こないだラブホに入ったのと、男子にそのお金出させたのがバレたのかな)

 

 そんな懸念は、その後の数時間のドタバタで吹き飛んだ。職員室に行くと電話が繋がっていて、それは救急隊員からだという。久実は受話器を取りたくなかった。でも、部屋の中のほぼ全員が、自分の一挙手一投足を見ている気がするし、取らないわけにはいかない。

 

「もしもし、西野です」

『あっ、お嬢さんの久実さんですか? 落ち着いてくださいね、いまお宅の奥さんが倒れて、近所の方の通報で来たんですが、ご主人、あ、お父さんと連絡がつかないので』

 

(なに、言ってんの、このひと)

 

 その後も救急隊員は話し続け、久実は母がこれから運ばれる病院を告げられ、父に連絡をつけることと、保険証を母の入院先に持ってくることを、うわの空で約束した。その間も頭の中では同じ言葉がぐるぐる回っていた。

 

(なに、言ってんの、このひと)

 

 母は、栄養失調で倒れた、と看護士さんは言い、くわしい話はお父さんが来てから一緒に、と言われた。久実は父の携帯にメールと留守電とで連絡は入れたが、それで父が世間のいわゆる定時で退社して、病院に来るのかどうか、見当がつかなかった。

 

 父は、思ったより早く来た。医師が「お嬢さんも一緒で大丈夫ですか?」と言う。父は「大丈夫です」と言ったが、そのときも久実は思った。

 

(なに、言ってんの、このひと)

 

 だが、久実はそこからも逃げ出さなかった。それが、責任感のせいなのか、どうせ父はなにもしないだろうから、自分が聞いておかないと、という諦念のせいなのかは、自分でもわからなかった。

 

 母は、栄養失調のほかに、点滴をしようとしたひじの内側にためらい傷が複数、見つかっていた。それがそう古いものばかりでもないということで、表向きは栄養失調のみの治療の、措置入院ということになった。

 

「お嬢さんはお母さんと過ごす時間が長かったようだけど、もしお母さんの入院で不安なことがあるなら、カウンセリングの準備がありますよ」

 

 父は久実に、「どうする?」、と、水を向けた。久実は「いまは、まだ、ちょっと、いいです」と言いながら、頭の中では、あの言葉が渦巻いていた。

 

(なに、言ってんの、このひと)

 

■ ■ ■

 

 母が入院してから、父の帰りは早くなった。前より出張も減ったような気がする。朝は最初のころはトーストに父の作る目玉焼きだったのが、スクランブルエッグになり、半熟ゆで卵になったりして、いまはオムレツに落ち着いている。具はハムだったりキノコだったりする。

 

 やってみれば、父は意外に料理好きだった。帰ってくると、スープやお味噌汁が鍋に作ってあり、炊飯器にはごはんが炊けていた。

 

「それで、どこ受けるのか決めたのか? お金の心配、いらないんだから音大、行きたければそうしなさいよ」

「うーん、正直、悩んでる。フルートはサークルとかで趣味にしておいたほうがいいのかなあ」

「部活でも先生に太鼓判押されたんだろ? まあ、よく考えて、ったってもう三年生なんだよなあ。急いでよく考えて」

 

 夜中過ぎには帰らなくなったとはいえ、久実が学校帰りに予備校に通うようになったのもあって、朝の食卓での会話が、親子の一日の大半になった。母は、入院して三か月になっていた。

 

「それよりさ、お母さんなんだけど……」

「お母さんのことも、いまは考えなくていい。受験が終わるまで考えなくていいから」

「……ふうん」

 

 父と病院との間で、その後、どういう話になっているのかは、久実にはわからなかった。でも、らせん状に撚り合わされていた、平穏な日常と呼べる日々が続いている安堵と、それが期限付きなのでは、という不安が、父のその言葉でほどけた。

 

 学校でも、久実はだんだんと男子や女子を翻弄しなくなっていった。いまは、誰とも付き合わず、告白されても「母がいろいろ大変だから……」で、すませていた。職員室の件は、いつの間にか学校中に広まっていたから、それは有効な一言だった。雄飛高校の女子にとって、平穏なヴァレンタインデーとホワイトデーが過ぎていった。

 

■ ■ ■

 

 その日、学校は高校見学デーだった。昼休みの前に売店に向かっていると、焼きそばパンとあんぱんを左手に、右手に一リットル牛乳を持った内田先生が、むこうからぱたぱたと小走りにやって来た。そして、久実の前で一瞬、立ち止まって言った。

 

「今日の見学演奏のソロ、期待してるからね!」

 

 そして、返事も待たずにまた小走りに音楽室の方へ去っていった。久実はそのまま売店に向かう。詩緒が自販機からいちご牛乳を取り出している。

 

「またそんな甘いもん飲んでるー。しかも二つ?」

 

 実佳が詩緒をからかっている。いちご牛乳を見て、久実は唐突に思い出す。

 

(ああ、そういえば、自分がここに見学に来たとき、あれ、悪いことしちゃった。もう、謝りようもないけど)

 

 そして、さいきんはあの言葉が頭に浮かんでこないな、と久実は気づく。そして、思った。

 

(音大、併願で受けるだけ受けてみようかな) 

 

 

 

 

◆◇◆◇◆◇◆

 

長々と書き連ねてきましたが、今のところ、彼女たちの話はここで終わりです。いかがでしたでしょうか。

同人誌の合評会では

「ピザを食べに行ってふられた同士はどーなったのか!」(恋愛的な意味ではどうもならなかったと思うよ)

「ほかの人のその後が気になる!」(わたしも気になるー)

「佐野先輩との進展は!」(数学を極めてほしいですね)

とかいろいろリクエストというかなんというかがありましたが、わたしのなかでまだそこまで彼女たちが動いていないので、全員分の続きは、そうですね、同人誌メンバーのみんなが赤いちゃんちゃんこを着るころかな?

 

 

 

 

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